パキスタン建国の父と呼ばれているのが、
ムハンマド・アリー・ジンナーという人です。この人の誕生日は今でもパキスタンの国民の祝日になっています。ガンジーやネルー、チャンドラボースがそうだったように、ジンナーもイギリス帰りのインテリで
あり、19歳で弁護士になるという当時の最年少記録を持っています。
著作権の終了した画像があったので貼っておきますが、中々シャープな顔立ちで男前ですが、どこかしら俳優のケビン・ベーコンに似てると思うのは私だけでしょうか。
インドに帰国したジンナーは弁護士事務所を成功させつつ、政治活動に入り、国民会議派のメンバーになります。1896年、ジンナーはまだ20歳です。40歳になる頃には全インドムスリム連盟の代表に選ばれ、国民会議派とともにイギリスに対して、インドの自治権を要求します。この頃、南アフリカからガンジーがインドに帰国します。ガンジーの運動は、一言でいえば「ふつーのインド人」を全面に押し出したもので、ガンジー自身、洋服も着ず、英語も喋らず、ヒンドゥーの教義に忠実でありました。
しかし、「ふつーのインド人」として普遍的なものを求めるガンジーのあり方は、大多数のインド人に浸透していきますが、同時に「ふつーでないインド人」の反発をも受けます。これまでの独立運動を指揮してきた国内のエリート層、あるいは最下層のインド人、さらにはヒンドゥー教ではないムスリムに警戒心を起こします。ガンジー自身はよく多くの人達のとともにというつもりであろうし、ヒンドゥー教だけをことさらにプッシュするつもりもなかったのですが、広く大衆へという最大公約数的な呼びかけが、そこに入りきらない人々からは嫌われてしまうという。ここが難しいところですが、ある程度大衆運動として盛り上げる必要はあるけど、かといってあらゆる少数派も含めていくと散漫でまとまりがなくなるうえ、メッセージ性も無くなるという。
ジンナーは、社会上層エリートとして穏健の改革を望んでいましたし、ややもすると危険な大衆運動を警戒していました。また、ヒンドゥーという宗教的色を出すと、ムスリムに対する要らぬ反発感情を巻き起し、インドを割ってしまうという懸念もありました。結局、後年においてジンナーの懸念は当たってしまうわけですが。1920年、ジンナーは国民会議派を離脱し、ガンジーらと距離を置きます。といっても敵対関係に入ったわけではなく、ムスリムとヒンドゥーの交渉や調整に腐心します。
1928年、国民会議派を指導していたネルーは、インドの即時独立を訴えると共に、これまでの約束であったムスリムの分離選挙が実行不可能である旨表明します。これでまた一悶着起きるのですが、この問題の背景には、単純に数の論理でいけば過半数を占めるヒンドゥー勢力の独裁状態になってしまうから、少数派であるムスリムには特別枠を設けてバランスを取らねばならないという発想があったからです。そのため議会の3分の1をムスリム議員に当てる等の案が議論されていました。しかし、人口比を越えてムスリムを優遇するのは不平等だと感じる人もいるし、広大雑多なインドを一つの国家としてまとめ上げていく立ち上げ期には強力の中央政府が必要だというもっともな意見もありました。しかし、インドを一つにまとめていけばいくほど、少数派ムスリムは貧乏くじを引かされかねないわけで、そこでギリギリの折衝が行われます。29年、ジンナーはジンナーの14条と呼ばれる対案を出しましたが、国民会議派や他の勢力から認められませんでした。
苦悩するジンナーですが、この時期、泣きっ面に蜂のように奥さんと離婚します。奥さんであるマリアムとは、1918年にゾロアスター教という宗派の違い、24歳も年下、しかもジンナーは二度目の結婚という何重もの壁を乗り越える大恋愛の末結婚したのですが、ジンナー多忙のゆえに夫婦関係がおかしくなってしまったらしいです。欧州旅行などをして修復をはかったものの空しく、27年に離婚、さらに29年には奥さんが病死してしまい、ジンナーは公私ともにドツボ状態に陥ります。
一方、独立運動の方はなかなか進捗しません。1931年、イギリスが茶番のような一時逃れのロンドン円卓会議を開催したのですが、出席したジンナーは「あ、こいつら本気で独立を認めるつもりはないな」と茶番性をすぐに見抜きます。何かもがイヤになってしまったのでしょうか、ジンナーはイギリスの法曹界に戻ってしまいます。「もう、俺、知らんもんね」くらいの感じだったのでしょう。
しかし、ジンナー以上の人材のいないインドのムスリム連盟から懇願され、3年後にジンナーは再びインドに帰り、ムスリム連盟のてこ入れを始めます。しかし、ジンナーの予感(将来的に独立インド内ではムスリムは少数派として押しのけられてしまう)は、早すぎたのか、まだ一般民衆にまでは浸透しておらず、選挙でボロ負けするなど、活動は壁にブチ当たります。とは言いながらも、インド内部での大衆運動=ヒンドゥーの盛り上がりが鏡のようにムスリム社会に反映され、将来に漠たる不安を覚えるムスリム民衆も増えてきました。ジンナーはもともとインドという統一国内でムスリムの権利保護を目指していたのですが、段々と「こりゃ無理だわ」という考えに傾き、ヒンドゥーとムスリムとで別々にやっていった方がいいじゃないかという、二民族論を提唱するようになります。ここでパキスタンという独立構想が現実味を帯びてきます。
しかし、ジンナーの主張は、当然のことながらインド国民会議派からは認められるものではないですし、それどこかイスラム勢力の一部から反発を買い、1943年には刺傷を負うなどジンナー暗殺未遂事件まで起きます。
第二次大戦終戦の年である1945年から46年にかけて、インドで総選挙が実施され、ムスリム連盟とインド国民会議派は、それぞれの割り当て議席枠をキッチリ確保します。選挙によって、インド国内に大きな2グループがあるということがより鮮明に明らかになってしまったわけです。宗主国であるイギリスは、後にパキスタンなるインドの両端エリアをムスリムが仕切り、中央部を国民会議派が仕切り、それを統括する連邦政府があるというギリギリの妥協案を出します。ジンナーは承認しますが、ネルーは中央政府の権限が弱すぎることを危惧し、結局、この案は流れてしまいます。
このような膠着状態において、カルカッタの大虐殺と呼ばれる暴動が起き、数千から数万人のヒンドゥー、ムスリム教徒が殺害されるという惨事になってしまいます。もはやジンナーや国民会議派によって民衆レベルでの対立を抑えきれなくなり、インドとパキスタンは分離して独立することになります。
この時点でジンナーの生命は殆ど尽きかけていました。数年前から結核を患っていたジンナーは、パキスタン独立後のさらなる激務によって健康状態を悪化させ、数ヶ月の保養をとるも病状は改善せず、独立1年後の48年9月に死去します。
このようにインドとパキスタンの産みの苦しみを、その生涯において背負い続け、ほとんど戦死のような壮絶な最後を遂げたジンナーですが、今でもパキスタンにおいては国父、最も偉大な指導者として敬慕されています。紙幣にはジンナーの肖像画が描かれ、カラチの空港はジンナー国際空港と呼ばれています。また、パキスタン国内だけではなく、広くイスラム世界においてジンナーの名は知られており、トルコやイランの大通りにジンナーの名前が使われています。
ジンナーは、インドを二分した”戦犯”であるという見方もあるそうですが、ジンナーはパキスタン構想をやむを得ない次善の策として捉えており、最後の最後まで統一インド構想を捨てることはなかったといいます。それに、今から振り返ってみても、当時のインドの状況は、神様でもない限りクリアすることは出来なかったでしょう。思えば植民地時代は楽であり、ヒンドゥーもムスリムも共に被支配者であり、イギリスに不満をぶつけていれば良かったわけです。しかし、いざ独立となれば、自分達の中での権力配分が重要な問題になります。民主主義における数の論理、数の暴力によってムスリムの権利が侵害されることへの憂慮は、優れた政治家であれば誰しもするでしょう。一部エリートだけではなく広く大衆運動として広めたガンジー、混沌たるインド亜大陸をまとめ上げるために強力な中央政府を求めたネルー、いずれも間違っているわけではないです。
誰も間違ってないのだけど、状況それ自体がどうしようもなかったという。強いて言えば、名もない民衆達がもうちょっとクールに、理性的に動いてくれたらと思うのですが、それまで政治も何も携わったことのない人々が関わろうとすれば、一定数の割合で熱狂的且つ粗暴な方向にいってしまう人々も出てくるでしょう。独立の際のゴタゴタで、多くの人命が犠牲になり、それがまた将来的な憎悪をかきたて今日に連なっていますが、インドという広大な面積と人口を考えたら、この程度で済んだのはまだしもマシだったと思われます。一歩間違えればアフリカの荒れている国のように、国内バトルロイヤルの殺し合いが延々数十年続いたって不思議ではないのですから。