李氏朝鮮史=派閥抗争の歴史
王朝内部での派閥抗争や論争のネタはいろいろあって、例えば中国伝統の漢人王朝(明)を助けるか、満州人の清をに与するかという外交上の問題、キリスト教の伝来により西欧に対して排斥的かどうか等々。このあたりはまだ国策論というポリシー上の争いですので理解可能ですが、なかには朝廷の儀礼(喪に服する期間)について大論争が起きたりします。はたまた、特にこれといったテーマはないのだけど、派閥争い、後継者争い、権力争い、それはもう年がら年中やってます。
一方王様は何をやっているのかというと、臣下の勢力争いをなんとか治めようとして、いろいろな方策を試みます。例えば、17世紀後半の粛宗の時代には換局政治という方法論がとられます。これは臣下の派閥争いを嵩じさせ、敢えてシーソーゲームの政権交代を繰り返させて派閥を疲弊させようというやり方です。18世紀前半の英祖は、逆に蕩平政治というやり方をとります。これは自民党の派閥政治のようなもので、派閥均衡論ですね。派閥勢力に応じて官僚のポストを割り振るという。
派閥もですね、西人派とか南人派とか出身エリア派閥だったらまだ分かるのですが、時々によっていろいろな派閥が出てきます。朝廷儀礼、服喪期間についての論争の時は西人VS南人派だったようですが、西人派は小論派と老論派に分裂します。もう頭がゴチャゴチャになってきたので最初から整理しましょう。
そもそも最初は勲旧派と士林派というのがあったわけですね。創業建国の際に勲功があった昔ながらの家臣団と、その後科挙試験などで抜擢されてきた官僚エリート達の争いみたいな感じでしょうか。士林派・官僚エリート達は、初期の頃に旧来勢力(勲旧派)に弾圧され(4つの士禍)ますが、時が経ち創業伝説の威光が薄れるにつれ勢いを盛り返します。で、士林派が天下を取るのですが、取ったら取ったで四分五裂します。士林派は最初と西と東に分れます(朋党政治)。東が天下を取ると、今度は東が分裂し、北人と南人に分れます。さらに北は大北と小北に分れるという。こうなると西人と南人が協力して北に対抗し、北を失脚させたらまた南と西で喧嘩をするという。
西が天下を取ったら、今度は王様の外戚連中に対して批判的な少論派と妥協的な老論派に分れます。粛宗時代は少論と老論とを交互に政権交代させる換局政治をやってましたが、英祖の代になると少論・老論・南人・小北を均等に採用する蕩平政治を行っていたということですね。さらに政策路線をめぐって保守的な僻派(老論が多い)と革新的な時派(南人、少論が多い)があり、またカトリックなど西洋文化の受け入れをめぐって功西派(西洋に敵対的)と信西派(受容的)になります。僻派とか信西派とかいうのは、政策論争ですから必ずも母集団である南人とか西人と一致するものではないのですが、おおむね合致するようです。例えば南人派には信西派が多いとか。キリスト教弾圧の時代には時派である、南人派、少論派が力を落とします。
ただこういう派閥政局だけではなく、ときどき個人が異様に権力を集中して持つこともあります。例えば、洪国栄による側近政治であるとか、外戚の金祖淳が自分の地元(本貫)の安東金氏ばかりを登用した権勢政治などです。
コップの中の嵐
李氏朝鮮の歴史を見ていると、韓国の歴史、あるいは韓国人の性向について、いくつかの特徴らしきものを見いだすことが出来ます。
一つは「コップの中の嵐」性とでも言いましょうか、閉ざされた社会の中で大激論や熾烈を極めた権力闘争が行われるという傾向です。2ちゃんやネットの”まつり”みたいな感じで、それがコップの中であるからこそ尚更激しくなるという。これが開かれた場所で、ジンギスカンやナポレオンみたいにドドドと攻めたり攻められたりしていたら、ウダウダ理屈言ってる余裕はないというか、「力が全て」というカラッとしたわかりやすさがあります。
なんか役所と民間企業の違いみたいですね。お役所の中では前例があるとかないとか、○年入省組がどうしたとか激しい権力闘争が行われています。民間の場合でも権力や派閥はありますが、ぼけっとしてたら会社そのものが市場競争に負けてブッ潰れてしまうという大きな「力の原理」に支配されています。だから生命力のある企業は、ある時点で人事を一新して一気に若返ったりします。死活問題だから派閥なんたらとか悠長なことをやってる余裕がないのでしょう。でも、親方日の丸体質とか大企業病にとりつかれた会社(昨今話題のJALとか)は、”コップ”性が強いから内部で激しくやっているうちに大きく外部世界から取り残される(JALでも労組が5つもあるとか)。
韓国の人の激しい性状や論争好きなところは、もう体質なんでしょうね。そういうタイプなのでしょう。日帝支配がどうしたと、日本に対して激しく罵倒してたりしますが、今回書いててよく分かったけど、あれって別に日本人に対してだけやってるわけではなく、身内同士だとさらに過激な応酬をやっているのでしょう。なにかで読んだけど、現代に至っても親百済派と親新羅派が口泡を飛ばしあって大激論してたりして、テーマはなんでもいいんでしょうね。そこで熱く激論することに意味があるって感じでしょうか。
これだけ年中議論して派閥抗争をやってるにも関わらず、外の世界に対しては大人しいのですね。秀吉の朝鮮出兵でヒドイ目にあったから、後日復讐に日本を征服するかというとそういう動きは全くない。清にしてやられて屈辱噛みしめているけど、ゲリラやテロ戦術で対抗するかというとそれもない。大体、韓国朝鮮が外の世界に侵略をしたということは殆どない。その意味では中国に似てますね。まあお手本にしているから当然といえばそうかもしれないし、外の世界は征服する価値もないという中華思想の表れなのかもしれません。しかし、いずれにせよ、隙さえあれば侵略しようとしてきた帝政ロシアなんかとは好対照です。
儒教体質
朝鮮史をみるばあい、事大主義という特徴的なコンセプトがあります。事大主義というのは、「小なるものが大なるものに従うのは正しい」という発想で、前回紹介した冊封体制と表裏をなす考え方です。中国という偉大なる大国があり、周辺の小国はこの大国に従い、君臣の礼を取るという。それがもう世界の正しい秩序なのだと。
こういった世界の秩序論は、人の道や君臣の礼について定めた儒教の説くところでもあり、李氏朝鮮においては儒教が全盛時代を迎えます。それまでの高麗は仏教文化系だったので、高麗色を払拭するという意味もあったのでしょう。また、高麗はもともとが高句麗という北方系の国であり、さらに北方系の満州族、つまり金とか女真とか契丹あたりとの交戦も含めた交流が深い。またモンゴル帝国が元を打ち立てて時は、王族は元王朝に取り入って権力を維持したという経緯があります。要するに、中国(漢人)系か北方・満州系かというと満州系の王朝だったといえるでしょう。
それを李成桂がクーデターを起こして倒し、新たに建国したのが李氏朝鮮ですから、体質的に親中(漢)的です。当時の中国は明ですが、明と良い関係を築くという方向性ですね。ところが明が弱体化し、満州族の後金(のちに「清」と改名)が台頭してきたことにより、心情的には明なんだけど、軍事的には清に逆らえないというツライ状況になります。意地を通して清に逆らったこともあるのですが、その結果、王様自ら土下座させられるという屈辱を味わうはめになっています。心中屈折せざるを得ないというか、「力こそが正義」とあっけらかんと吹っ切れないのは無理のないところです。
そこで、李氏朝鮮下の人々の心の拠り所は、力の強弱ではなく、物事には正しいことと正しくないことがあるという原理的なものに傾いていきます。それが儒教であり、そこから発展した朝鮮性理学・朱子学なのでしょう。韓国人の儒教体質は、李氏朝鮮時代に徹底的に骨身に染みこみ、それが現代にも連なっています。また、本家中国が夷狄・蛮族である満州族によって占領されてしまったからには、古来からの伝統的で正統な儒教王朝は朝鮮のみであるというプライドも強烈に形作られます(小中華思想といいます)。
儒教のなかでも性理学、朱子学と呼ばれる一派は非常に哲学的、理知的です。しかし、それだけに理屈先行の頭でっかちなところが多分にあります。「正しいものは絶対正しい」という純理性は、やってる本人は陶酔出来て楽しいとは思うのだけど、実戦面においては重大なリスクがあります。第一にガチガチに石頭で保守的になりがちだということです。儒教でいう長幼の礼も、なんで先に生まれたというだけでエラいんだ?という当然な疑問は封殺し、エライものは無条件でエライというドグマティックなところがあります。そうなると礼法とか作法に詳しい奴が勝ちというコテコテの教条主義や官僚主義になりがちだし、科挙制度を中国から取り入れてるから益々石頭の官僚国家になる。この理論好き体質は、容易に議論好きに転じます。だからこそ、元や日本などの外国に攻められているときでも城内で大喧嘩していたり、服喪期間がどうのことで政変が起きるという事態になるのでしょう。
そうそう、官僚主義、官僚崇拝的傾向は、ヤンバン(両班)崇拝傾向に通底するものがあるでしょう。両班とは高級官僚による特権階級ですが、上に述べたようにお金を出せば資格が買える時期があったこともあり、今では国民の9割以上が「ウチはヤンバンの家系」という、統計的にありえない事態になっています。
第二に、理論の美しさや理屈の過激さに酔いしれるところがあり、理屈が先行しすぎて、著しく現実的適応性を欠くという欠点があります。このことは心の底では軽蔑している北方夷狄の清に頭を抑えつけられているという”とほほな現実”から逃避するための格好のツールにもなりうるわけです。だいたい強い奴は理屈言いませんよね。言葉よりも行動。何も言わずにガンガン覇道をいく。昔からキャンキャン吠えるのは弱い犬なのが定番のように、現実社会から背を向けてあーだこーだ言いあってるだけじゃん、という冷たい見方も出来ると思うのですね。狭い世界で理屈の過激さを競い合ってギャンギャンやってて、現実適応能力がなくなっていくというのは何処の世界でもありますが、朱子学というのはこの傾向があるように思います。もともと儒教というのは、力こそ全てというパワー系権力者から「屁理屈ばかり言ってるだけでクソの役にも立たない奴ら」と馬鹿にされる傾向があり、秦の始皇帝も焚書坑儒で儒者を皆殺しにしたし、中国でも日本でも、”腐れ儒者”とか”腐儒”とか馬鹿にする傾向があります。
日本の幕末でも朱子学的な部分が暴走した面はあります。そもそも「尊皇攘夷」というのは、北宋(金)に押され気味でジリ貧だった南宋の学者が負け惜しみのように言いだしたスローガンでもあります。「神国日本を汚す夷狄は断固斬るべし!」と、とにかく過激なテロ行為が賛美され、その結果どうなるかまでは考えないという。先のことも考えず、現実もかえりみず、ただ一瞬の行動の美に燃焼するのは簡単だし、気持ちいいでしょう。ただ、日本の場合は、昔から儒教は単なる教養としてしか入ってきておらず、生活習慣を律する宗教的なまでの秩序にはなってませんでした。だから必要があれば儒教の教えだろうがなんだろうが平気でシカトするし、現実に正しく対応するというリアリスティックなところが強い。だから、尊皇攘夷〜!とか吠えたくっても、薩英戦争や下関戦争で西欧列強にボコボコにやられたら、「こら、叫んでるだけでは意味ないわ」とすぐに気づき、あっさり180度方針を転換し、気が狂ったかのように徹底的に洋風化し、富国強兵化します。
日本で明治維新が起きたのに、なぜ朝鮮では起きなかったのかというと、李氏朝鮮時代の儒教文化が骨がらみで染みこんでいたからでしょう。偉大なる中華帝国の一翼を担うということがプライドの本源だった朝鮮の場合、遠隔地にあってマイペースでやってる日本の存在は常に軽蔑の対象でありました。大体、日本に"天皇””皇帝”がいるということ自体が彼らにとっては失笑の対象であり、また腹立たしいことでもあります。”天子”というのは大宇宙にたった一人、中華帝国皇帝ただ一人を指すものであり、それを辺境の島国の蛮族の酋長ごときが天皇を名乗るなどおこがましい、ものを知らないにもほどがあると。まあ、あいつらは半分動物のような東夷だから真面目に怒るだけ馬鹿馬鹿しい、てなもんでしょう。遡れば、聖徳太子が「日出ル処ノ天子」と書いた頃から、「”天子”だってさ、まったく、もう」と失笑していたくらいですから。だから日本が和服を捨て洋服を着て、ちょんまげを切って文明開化をやってる頃、朝鮮ではこの有様を冷笑していたわけですね。「これだから教養のないミーハーどもは、、、」ってな感じ。お年寄りが、ヘンなカッコして歩いている若者を冷笑するような感じでしょうか。
朝鮮の立場や価値観で言えば、正統性や価値序列でいえば圧倒的に上である筈の自分達が、北方の満州族(女真とか清とか)の暴力によって屈服させられ、戦時中は蛮族日本にいいように従わされたという、「正しいはずなのに全然報われない」という、「こんなことがあって良いのか」という不本意で理不尽な時代が続きます。というか、歴史の殆どがそんなのばっかりです。この理不尽な現実が、理論への逃避を招き、ますます議論好きになっていくという悪循環があるような気がします。
韓国社会に儒教が浸透しているのは、盤石の社会秩序や醇風美俗という意味では良いのでしょうが、マイナス面も多いです。とかく秩序の美しさを優先するので、どうしても保守的になり、先進的な取り組みがしにくい。次回にも述べますが、朝鮮の派閥抗争でも、開明的な人達、日本のように富国強兵を目指そうとした先見性のある人達も沢山いました。が、どうしても頭の固い守旧派に押し切られてしまう傾向があります。
儒教的秩序美が社会の進展を抑えてしまう例としては、例えば貨幣経済や商業が中々進展しなかったという点もあります。儒教においては、商人は卑しむべき存在であったからです。歴代君主も貨幣鋳造など改革を行おうとしますが、なかなか上手くいきません。商業システムそのものが育たなかったというのは、19世紀の世界の潮流(産業革命と資本主義)にとって極めて不利に作用したと思われます。
また、祖先崇拝や血族重視の儒教の考え方は、どうしても地域的人脈的党派性を招きがちですし、現在にも脈々と続いている同姓同本不婚=姓が同じで先祖の出身地(本貫)が同じ男女は結婚できないという慣習なんかにもつながっていきます。民法で堂々と書かれていたのですが、1997年の違憲判決を受け、2005年に法改正が行われました。
儒教が盛んなのは勉強熱心という意味ではプラスに作用し、印刷技術や出版は盛んだったようです(でも商品流通システムは無かった)。しかし、四書五経などの膨大な古典に通じていることが奨励されるので、少数のインテリだけがエリートになり、そこにばかり社会のスポットライトが当たるという貴族社会的な面もあります。世宗大王が偉大だったのは、一般庶民も含めて全体の国力向上やインフラを考えたことであり、そのために誰にでも読めるハングル文字を開発しています。しかし、せっかく世宗が作ったハングルも、両班ら知識人階層は軽蔑して使わなかったといいます。君主の建物よりも高い建物を造るのは宜しくないという秩序感覚から、ソウルの建物は殆どが平屋だったといいますし、また下水などのインフラ整備もかなり遅れていたそうです。
李朝500年間、社会整備や発展という観点からいえば、儒教という古典エリート教養主義が相当なブレーキになっていたのだろうなと思われます。